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ぴよ。の自己紹介

2020年10月8日自己紹介

みなさん、こんにちは!

ぴよ。です!

本日は、初めまして。

ということで、自己紹介をします。

書いているうちに、「ぴよ。完全攻略ガイド」

になってしまいました(笑)

ぴよ。が今までどんな人生を歩んできたか、

興味ある方は見てみてください!

 基本情報

まずは、基本的な情報からです!

プロフィールページと重複する部分もありますが、お付き合いください!

名前 ぴよ。
生まれ年 1993年・酉年
姉妹 妹が1人
居住地 北海道
星座 しし座
血液型 O型
オレンジ
季節
趣味 カラオケ
小説 SPEED/金城一紀さん
漫画 犬夜叉
アーティスト

GARNET CROW、King Gnu、ONE OK ROCK 、[Alexandros]その他いろいろ

キャラクター
ムーミン、タキシードサム、
キキララちゃん
フルーツ さくらんぼ、スイカ
お菓子 クッキー、チョコ
飲み物 紅茶・ハーブティー
性格 HSS型HSP・INFJ型・AC

~ 取得資格 ~

・保育士資格

・ほめ育てアドバイザー

・チャイルドカウンセラー

・家族療法カウンセラー

・その他、事務系の資格

こんなところでしょうか。
さあ、続いては、幼少期編へ。

 幼少期

 
小さいころの記憶なので、
あやふやなところもアリです。
 
 
 
小さいころから、とても人目を気にする子でした。
 
 
母親に、どんくさい!と言われた経験もあり、
「なぜ私は、みんなと同じようにできないんだ」
 
 
 
と子どもながらに思い悩み、
人から言われた何気ない一言で
深く傷つくことが多かったように感じます。
 
人見知りで、親戚に挨拶する。とかは苦手でした。
 
 
 
今思うと、
HSP気質というのもあったのかもしれませんね。
 
 
 
ですが、私はHSSの気質もあるせいか、
意外に目立ちたがり屋な一面もあり、
お遊戯会で可愛い衣装を着て、
ステージに上がるのが楽しみでした。
 
 
このころから、
歌うのも割と好きで、ピアノも習っていました。
 
 
 
お遊戯会で、
どの踊りを担当するかのジャンケンに勝ち
自分のやりたい踊りが出来たことが嬉しくて、
記憶のほんの断片ですが、今でも覚えています。
 
 
 
最高に曖昧な記憶ですが、
当時ジャンケンが割と強くて、
やりたい事を結構な確率でジャンケンをして
勝ち取っていたような気がします(笑)
 
 
 
 
母親に聞いてみると、
初めて幼稚園に行くときも泣かずに、
すんなりと行ったそうです。
 
 
 
地味ですが「真面目でいい子」ではあったので、
大人たちから見ても、
周りからも浮いたりすることはなく、
集団行動やその他も特に問題なし。
とされていたのだと思います。
 
 
 
 
 
この後、実に長い間、
 
「真面目でいい子」
 
に苦しめられることになります・・・

 小学生

小学校1年生の夏、事件は起こりました。
 
 
学校から帰り、友達の家に遊びに行ったとき、
友達の家の時計が壊れていたのです。
 
 
時計の針は、ずっと遊んでいてもいい時間のまま。
気付けば、夜になっていて、
帰ってこない私のことを心配した母親は、
警察にも相談していたそうです。
 
 
後から聞いた話ですが、その友達の家は共働きで、
自分1人になるのが寂しかったから、
私の事を引き留めようとしたんじゃない?
 
 
と母親は言っていました。
 
 
今、その子に、聞くことは出来ないので、
本当に時計が壊れていただけで
2人とも気づかなかっただけかもしれないし、
真相は分かりません。
 
 
 
 
そして、翌日、学校に登校すると、なぜか私が嘘を
ついているという展開になっていました。
 
 
訳が分からず、なんで?と聞くと、
 
友達は
「昨日○○ちゃんの家行ったとき、
時計壊れてなかったのに、壊れてるって言ったんでしょ?」
 
 
ということでした。
 
 
私は、家に遊びに行った友達に確認しましたが、
「壊れてないよ。」
と言われるだけでした。
 
 
あれ?もしかして、
本当に私が見間違えただけなのかな?
 
 
と、まだ幼い私は記憶力が不安になりましたが、
なんとかその場をやり過ごし、
その後、嘘をついた件で友人から責められることは
一度もありませんでした。
 
 
にしても、噂とは怖いものだ。というのを
幼いながらに思い知らされました。
 
 
 
 
そして、私は父の仕事の都合により、
小学校2年生の半ばで転校をしました。
 
 
転校前の小学校で
好きな男の子も出来たとこだったのに!
まあ、それはどうでもいいですね。(笑)
 
 
 
転校初日、みんなまだ子どもだったので、
転校生の私に興味津々。
 
 
あっという間に席を囲まれて、すごくドキドキして
周りを見回したのを覚えています。
 
 
 
 
そして、なぜか初日にクラスの男の子から
ランドセルで頭を叩かれました。
結構な勢いで(笑)
 
 
反発する気も起きず、茫然としていたら、
横から「なにすんの!可哀そうじゃん!」
と助けてくれた子がいて、
私は、無事助かったのです。
 
 
その子とは、今でも仲が良いです。
運命ですね(笑)
 
 
 
 
そして、私の生活が変化したのは、
小学校3年生になったある日。
 
 
私は友達から誘われ、
バスケットを始めることにしたのです。
 
 
今思えば、
マルチタスク苦手な私が、バスケット!?
 
という感じですが、
当時の私には友達がワイワイとやっている姿が
楽しそうに見え、少年団に入ることにしました。
 
 
 
そこで出来た友達もいますし、
楽しいこともありましたが、
やっぱり辛かった記憶の方が
鮮明に残ってしまうものですね。
 
 
 
実は、このころ、
幼稚園から習っていたピアノは辞めました。
 
 
転校してからも続けていたのですが、
先生が鬼のように怖くて、
正直早く辞めたかったので、
 
バスケットを始めた理由の半分は、
ピアノを辞めるための口実でもありました。
 
 
 
 
その後、一応6年生までバスケットは続けましたが、
正直とてもとても、とても下手くそでした。(笑)
 
 
完璧主義な部分もある私は、
試合で活躍する友達や後輩を見て、
劣等感に苛まれまくっていましたね。
 
 
 
いつ頃からか忘れてしまいましたが、
年齢が上がるにつれて、学校に行きたくない。
という思いも強くなっていきました。
 
 
 
 
ですが、私は「真面目でいい子」です。
勉強についていけなくなったら、この先困るぞ。
という思いと、周りに心配かけないように。
という思いで、それなりに友達と上手くやり、
なんとか学校へ行っていました。
 
 
小学校でも、先生や親からみても、
 
特に問題はなし。
 
という感じの子だったと思います。
 
 
毎日、「自分、風邪ひいてくれないかな。」
なんて思いながら過ごしていました。
 
 
 
 
小学校3年生か4年生だったと思いますが、
ある日、家で押し入れの大きい扉がしっかりと
ハマっていなかったせいか、私の頭にボーンと
直撃したことがありました。
 
 
その時、痛みはすぐに引きましたが、
母の注意を惹きたいという思いと、
学校を休めるかもという思いで、痛がり続け、
病院へ連れて行ってもらったことがあります。
 
 
妹もいたせいか、
母親からの愛情がもう少し欲しい。
という思いがあったことを覚えています。
 
 
 
 
私は、家族との仲は悪くなかったのですが、
注意の仕方などが、自己肯定感を削がれるような
言い方だったかな。とは今でも思います。
 
 
恨んだりはしていませんけどね。
 
 
 
 
そして、あんまり私の歴史には関係ないのですが、
今でも忘れられないことがあります。
 
 
 
 
ある日の体育の授業の時。
仲のいい友達がうんていをしていて、
私は近くで見守っていました。
 
 
すると、いきなり
「わーっ!!」という声と
「ボコッ。」という音ともに
友達が地面に落ちたのです。
 
 
すぐに倒れている友達の腕を見ると、
肘の部分がどう考えても、
おかしい方向へ曲がっています。
 
 
友達は
「イタイよ、イタイ・・・」
と呻いています。
 
 
すぐさま、先生を呼びました。
程なくして、救急車が到着し友達は無事、
病院へ行きました。
 
 
当時は本当にいきなりの事で驚きましたが、
骨の折れる音が今でも耳に残っています。
 
 
 
 
卒業時の恒例行事ですが、
自分の卒業アルバムをみんなに回して、
寄せ書きをしてもらっていました。
 
 
その中に、なぜか
 
「芸人になれ!」
 
というメッセージがあります。
 
 
当時クラスの中でも、
割とイケイケな方の男子が書いてくれました。
 
 
今でも、なんで?と聞きたいです(笑)
 
 
小学校でもやはり、同じ気質を持ったまま、
中学校へと進学します。
 
 
 
 
むしろ、成長するにつれて、
気質が強くなっていく気さえしていました。

 中学生

 
思春期真っ盛りで、私の「真面目でいい子」
も少し苦しくなってきた中学生時代です。
 
 
 
 
私は自分が可愛くないことがコンプレックスで、
特に中学生の頃はニキビなどにも悩みました。
 
 
母親にはニキビは青春のシンボル!と言われて、
皮膚科には連れて行ってもらえず、
病院で薬をもらっている友達が羨ましかったです。
 
 
 
容姿も性格も自信がない。かといって、
すごく勉強が出来るわけでもない。
自分の全部が嫌だった時期だったと思います。
 
 
 
 
そんな私でも、
なんと中学に入ってすぐに初めて告白をされます!
小学校が同じだった子が好きだと、
伝えてくれたのです。友達伝いで。(笑)
 
 
さっそく初、彼氏!?と思いきや、
私は、付き合うなんて何が何だか分かっておらず、
興味もなかったため、
「ご、ごめんね。」と言いました。
 
その後、若干気まずかったです(笑)

 
 
 
私は、部活動に入りました。
仲のいい友達と一緒に入り、
新しい友達も出来て、楽しく過ごせました。
 
 
中1までは。
 
 
 
中学2年になって、先輩や後輩、
友達ともいろいろと問題が起こり、
なんやかんやで大変な思いをしました。
 
 
「真面目でいい子」ではいるものの、
私の自己肯定感は一向に上がらず、
華やかなダンス部が可愛くて羨ましかったです。
 
 
 
 
そして、中学3年生になり、
受験も控える中、初めて大きい病みが来ました。
 
 
 
私は、高校受験をプレッシャーに感じ、
高校行かない!と言い始めたのです。
 
 
布団の中で、毎日毎日泣きました。
 
 
心が辛くて辛くて、完全に自分の心も失い、
自分は何が嫌だったのか、
どうしたいのかも分からなくなっていました。
 
 
 
 
母親に、
「どうしたの!?言ってくれないと分かんないよ!」
と何回も何回も言われましたが、
 
 
私は「分からない。」
としか答えることが出来ませんでした。
 
 
少しずつ私の心を分かってくれない母親に対して
心を開かなくなり、聞かれてもずっと
無言を貫き通していました。
 
 
 
ついに私の
 
「真面目でいい子」
 
が行き場をなくして逃げ出そうとしたのです。
 
 
 
 
最終的に、母親からは何も言われなくなり、
私は、時間はかかったものの、
なんとか自力で気持ちを戻し、
受験する高校を決めることが出来ました。
 
 
 
 
この頃から、私は何となくの生きづらさ。
だけではなく、夜に大泣きしては過呼吸になる。
 
 
というのを何度も繰り返すようになりました。
 
 
理由もなく、なぜか悲しくなり涙がでる。
という夜をたくさん超えてきました。
 
 
割と最近まで、この症状は消えませんでした。
 
 
 
 
 
3年生の時の部活動では、
なかなかいい成績を残しましたが、
部内は何度も荒れており、
 
ついに、
顧問の先生が部活に顔を出さなくなりました。
 
 
 
今思うと、問題になったことも、
そんなに大きなことではないような気がしますが、
中学生にとっては、とても重大なことで、
いけないことだったのでしょう。
 
 
例えば、
帰り道に家に一度帰らずに公園に寄ったり、
学校に飴を持ってきていたり、
 
そんな感じのことだったと思います。
 
 
 
 
そして、私が代表して、
職員室へお説教を受けに行くことになったのです。
 
 
全員分の反省文を持って職員室へ入ると
顧問の先生に謝りました。
 
 
 
ボロボロに泣いてしまったので、
そこから何を言われたか、
などはあまり覚えていないのですが、
 
職員室にいる他の先生たちの視線が痛くて、
辛かったです。
 
 
目線こそ合わないものの、
ああ、怒られてるな。
なんの問題起こしたのかな。
 
など、先生たちの心の声が
聞こえてくるように感じました。
 
 
 
 
無事、職員室から解放された私は、
ボロボロの状態でしたが、
外で部活友達が待っていてくれました。
 
 
いろいろ声をかけてもらったと思いますが、
それもあまり覚えておらず、ただただ辛かったな。
 
という記憶しか残ってません。
 
 
 
その後、(私の頑張りにより)顧問の先生は
部活に来てくれましたよ。
 
 
 
私は、当時の顧問の先生のことは
嫌いではなかったです。
 
私の頑張りも
ちゃんと認めて下さっている先生でした。
 
 
 
 
後に、担任の先生にも話を聞くと、
 
「あの時、お前頑張ってたよなあ。」
 
と言ってくださり、頑張って良かったのかな。
と思えました。
 
 
 
 
そして、嫌な話ばかりではありません。
とても嬉しかったこともあります。
 
 
今のカウンセリング業に繋がる事かもしれませんが
3年生の時、
クラス内で付き合っている子たちがいました。
 
 
彼の束縛が結構ひどく、
他の男と一切しゃべるな。
と言われていたようです。
 
 
文化祭シーズンということもあり、
周りも必要最低限の会話が出来ず困っていました。
 
 
 
 
そんな時、女の子の方が、
辛くなったのかポロっと涙を流したのです。
 
 
私は、彼とのことだろうと予想し、
「大丈夫だよ。」などいろいろと声をかけました。
 
 
大した声掛けはしていないし、
特別なこともしていないのですが、
 
ああ、辛いんだろうな。
とその子の心に寄り添うことが
無意識に出来てしまったのだと思います。
 
 
 
 
その時は、恋愛って大変だなぁ~。
くらいにしか思っていませんでしたが、
 
後に、私の母親から、こんなことを聞かされます。
 
 
 
あなたが、恋愛相談に乗った子のお母さんからね、
 
「娘が悩んでたけど元気出たのは、
あなたのおかげです。ありがとう。」
 
って言っておいてって言われた。
 
 
と言ってきたのです!
すごく嬉しくて、今でも覚えています。
 
 
 
 
その子から母親に伝えてくれて、
更にその子の母親から、私の母親に伝えてくれて、
私に伝わりました。
 
 
直接お礼を言われることも、嬉しいのですが、
人から伝わって言われるのもとても嬉しい事です。
 
 
 
幸せの輪が少し広がったように感じたのです。
自分たちだけじゃなくて、周りの人へも。
 
 
 
 
いろんなことがあった中学時代でしたが、
私は、部活動を頑張ったおかげと、
勉強もそこそこ頑張ったおかげで、
高校には推薦で入学することが出来ました。
 
 
 
 
そうそう、中学生の時は、
割と日記のような物を書いていたようで、
家に眠っているので、
それも今度どこかでお披露目出来ればと思います。
 
 
2冊くらいあるので、全ては難しいですが。
 
 
なかなかの中二病で、
自分で読んでいても恥ずかしいです。(笑)
 
 
文字が、当時流行っていたギャル文字のような感じで、
非常に読みにくいですが、時代を感じます。
 
 
 
みなさん、
青春に恥ずかしさは付き物、ですよね・・・
 

 高校生

 
高校生では、思春期ピークは過ぎ去ったものの、
どこか影のある雰囲気の子だったと思います。
 
 
 
 
この頃には完全に、
自分は集団に馴染むのが苦手だという意識があり、
あまり大きな輪には入らないようにしていました。
 
 
クラスメイトとのコミュニケーションは
必要最低限くらいにしていましたが、
1人でいることが多かったわけではなく、
3人くらいの少数で行動していました。
 
 
 
小学生の時には、芸人になれ。
と書かれていたはずの私が、
完全に地味というイメージが定着していました。
 
 
 
人に合わせることは、相変わらず得意だったので、
何かとグループ行動な女子の中でも
上手く立ち回り、
 
いつも一緒にいるメンバー
という感じの友達はいました。
 
 
 
 
ですが、私はというと、この頃からハッキリと
「友達ってなんなの?」
という疑問を抱き始めていました。
 
 
一緒にいる子たちは、傍から見ると友達だけど、
自分の中で果たして本当に友達なのだろうか?
という気持ちが消えなかったのです。
 
 
 
今思えば、きっと無意識のうちに自分を隠し、
本当は自分と合わないと思いながらも
気を配りながら一緒にいたからでしょう。
 
 
 
 
文化祭などのイベントがあると、
ステージでバンド演奏している子たちが
キラキラしていて羨ましかったです。
 
 
私は歌うことが好きなので、
ボーカルかっこいいな。
 
でも、
私はあんなに上手には歌えないから無理だよな。
と思いながらステージを眺めていました。
 
 
 
 
ですが、高校生活は義務教育の時とは違い、
かなり学校内でも自由になったように感じ、
楽しかった部分も多いです。
 
 
例えば、学校におやつを持ってきて、
休み時間に食べてもいいこと!
 
 
購買もあって
ジュースもおやつもパンも買えちゃう!
 
 
 
これは、衝撃的でした。
 
 
今まで飴ひとつ鞄の中に入っていただけで、
うるさく言われていましたし、
学校に食べ物はダメ。
という考えしかなかったのですから。
 
 
 
携帯電話は使用禁止で、
見つかったら没収されていました。
厳しいですね。
 
 
ちなみに、
私が高校1年生の時は、まだガラケーでした。
 
スマホが普及し始めたのは、
確か高校3年生くらいだったと思います。
 
 
 
 
高校生でも部活動に入りました。
 
 
中学生の時とは、全然違う部活動でしたが、
私には向いていたようです。
 
 
クラスは何となく合わないと思っていましたが、
割と部活仲間は好きで楽しくやっていました。
 
 
 
 
片道40分自転車を走らせ、
テスト勉強に検定勉強、そして毎日部活。
 
 
今思うと、
考えられないほど忙しかったような気がします。
 
学生の皆さん、いつもお疲れ様です。
 
 
 
 
高校から新たに始めた、
私に向いている部活動ですが、
遠征等もあり、いろんな場所へ行きました。
 
 
道具代等もかかっていたので、
親には金銭面で大変お世話になったと思います。
 
 
 
 
大会もいくつかあったのですが、
高校3年生の全道大会の日、
なんと学校の文化祭と日程が被っていました。
 
 
顧問の先生には、
どちらも最後だからどっちをとってもいい。
と言われました。
 
 
当時、顧問の先生は、
3年生のクラス担任も持っていたため、
 
部活動で全道大会に出場するということは、
3年生にとっての最後の文化祭の日は、
 
 
そのクラスは担任不在。ということになります。
とても、申し訳ない気持ちになりました。
 
 
 
 
ですが、顧問の先生は、
自分も部活動で全道大会へも行きたいし、
文化祭も最後だし、出たい気持ちもある。
 
と先生自身もどちらをとっても
どちらかは、諦めなければならない。
 
という気持ちでいてくれたようでした。
 
 
最終的に全道大会へ出場するメンバーで
よく話し合った結果、
 
 
私たちは全道大会へ出場することになりました。
 
 
 
 
こうして文化祭当日の欠席が決まった私は、
文化祭の準備期間、とても頑張りました。
 
 
壁新聞を作成する係になり、トップ記事を書き、
クラスダンスも出来る限り手伝いました。
 
 
クラスの仲はあまり良くなく、
完全に派閥化していました。
 
 
毎日、誰かが愚痴を言っていたり、
浮かない表情をしていたりする状態で、
正直私の心はしんどかったです。
 
 
文化祭時期はよくあることなのかもしれませんが、
重い空気は私には苦しかったです。
 
 
 
クラスダンスの方も、
照明など裏方を手伝ったりしていたので、
客観的に見ていると、
全体の悪い部分が分かります。
 
 
ダンス部分が難しすぎるから
簡単にしてもっと揃えればいいのにな。
 
 
とか、様々なことを思いましたが、
文化祭に出ない私が言っても、
生意気と思われるかな。
 
という気持ちが勝ち、心に留めることにしました。
 
 
 
 
私は、意外とアイデアは出る方です。
 
高校2年生の時の文化祭では、
クラスダンス係になり
踊りのシナリオ案を出しました。
 
 
見事採用され、
そのシナリオ通りにダンスを考えていきました。
 
 
結果的に、最優秀賞を取りましたが、
私はリーダーではなかったので、
リーダーの子がすごく案を出して作ってくれた!
みたいな感じの雰囲気になってしまい、
 
当時の私は
少しムスっとしたのを覚えています(笑)
 
 
実は今まで、誰にも話してなかったので
ここで書き綴ることが出来てスッキリです(笑)
 
 
 
 
話は戻りますが、こうして全道大会へ出場した私達ですが、
なんと一生懸命に取り組んでいたおかげで、
全国大会が決定したのです!
 
 
高校でもずっと
「真面目でいい子」に苦しめられていましたが、
 
初めて真面目にやっていて
良かったと思えた体験でした。
 
 
全国大会が決まった瞬間、
仲間と泣いて喜んだこと、
顧問の先生のよくやった。
 
という顔が今でも忘れられない思い出です。
 
 
 
 
全道大会からの帰りが早かったため、
まだ学校で文化祭がやっているとのこと!
 
 
学校へ戻り、体育館に集まっているみんなの前で、
全国大会が決まったことを発表しました。
 
 
久しぶりにステージから見る大勢の観客。
 
私は、恥ずかしい気持ちと
嬉しい気持ちでいっぱいでした。
 
 
 
 
ですが、文化祭の結果は、
私のクラスは最下位だったようで、
クラスの空気が重すぎて
すぐに複雑な気持ちになりました。
 
 
隣のクラスは
すごく盛り上がっているので尚更です。
 
 
壁新聞は優秀賞をとれたので、
私が頑張ったかいはあった・・・かな?
 
なんていう自己中心的な考えを心に秘めながら、
最後の文化祭は終わっていきました。(笑)
 
 
 
 
その後の全国大会では、
結果は良くなかったものの、
遠くに遠征することも出来て、
とてもいい思い出になりました。
 
 
私の親戚も見に来てくれて、
感動した。と伝えてくれたので、
本当に行けて良かったと思っています。
 
 
 
 
そういえば、
私は大切な大会の2週間ほど前に
事故にあったことがあります。
 
 
自転車に乗っていた私は、
ちょうど右側から出てくる車と衝突したのです。
 
 
車のスピードは出ていなかったので、
少しぶつかったくらいですが、
車の威力は凄まじいです。
 
 
私は、自転車から落ちて転びました。
その時は、傷もなく、どこも痛くない。
と思っていました。
 
 
初めての経験で、気が動転してしまい、
相手の連絡先等も聞けませんでした。
 
 
家に帰ると何となく手首が痛い気がして、
病院へ連れて行ってもらいました。
 
 
結果は、剥離骨折です。
 
 
大事には至らなかったので、良かったですが、
車も、自転車も、
十分に気を付けなければなりませんね。
 
 
 
 
卒業も近づいてきた、
ある日の国語の授業の時です。
 
 
「卒業論文を書いてもらいます。」
と先生が言いました。
 
 
噂で聞いてはいたものの、
正直、めんどくさいなあ。と思っていました。
 
 
何かを調べて文字にする。
ということもやったことはないし、
私がスマホを持ち始めたのは、
高校を卒業してからです。
 
 
パソコンも壊れていて、使えませんでした。
そうなると、図書館や本で調べなければならない。
 
 
 
当時の私は本を読むのは好きでしたが、
物語系の小説しか読んだことがありませんでした。
 
 
自分で調べて、考えて文字にして・・・
という作業がとてつもなく面倒に感じたのです。
 
 
 
 
そもそも、何について書くか。
を考えるのも嫌でした。どうしようもないですね。
 
 
そこで、私は
調べなくてもいいを書こうと思ったのです。
 
 
 
 
まだ当時の文章が残っているので、
 
いつか、ブログで披露したい。
と思ってはいます。
 
その論文で初めて
自分の中にあるモヤモヤを文章にしてみたのです。
 
 
今思えば、論文ではなかったかもしれませんし、
高校生が提出する内容としては
完全に“普通”ではなかっただろうと思います。
 
 
 
 
ですが、私は、初めて自分の思いや考え方を綴った
その論文を思い切って提出しました。
 
 
何か言われたらどうしよう。
 
と内心ビクビクしていましたが、
特別評価されることもなく、
先生からも何も言われず、
良かったのか悪かったのかも分かりませんでした。
 
 
 
 
先生たちも、
私の心の闇に触れまいとしていたのでしょうか。
 
それとも、特に何も思わなかったから
コメントもなしだったのでしょうか。
 
 
 
 
真相は分かりませんが、
私自身は、今になってその論文が結構気に入っています。
 
 
 
当時は、変なことを書いてしまった。
みんなの思う“普通”ではない事を書いてしまった。
絶対、変な奴だと先生たちに思われただろうな。
 
 
と、いろいろ考えを巡らせて、
自分が“普通”ではないことが嫌になり、
 
なんであんな論文を書いたんだろう。
と自分の黒歴史だと思っていたのです。
 
 
 
 
なぜ、今は好きになれたのかというと、
 
きっと“普通”なんてない。
 
と思えているからです。
 
 
 
 
私は私でしかなくて、
他の人は他の人でしかないです。
 
世の中の“普通”なんて、
環境が変われば180度変わってしまいます。
 
 
 
過去に自分が思った疑問に対して、精一杯、
答えを出そうと思って書いた文章は素晴らしい。
 
と今は心から思えるようになりました。
 
 
 
 
文章自体は、下手くそだし、
文章が変なところも
たくさんあるかもしれないけれど、
 
 
間違いなく私の気持ちであり、
間違いなく私の言葉なのです。
 
 
真摯に自分と向き合い、考え抜いた結果です。
 
 
 
 
そうして、私は
無事卒業式を迎えることになります。
 
 
 
 
そうそう、私が卒業後に
どこへ進んだのかは、次の章で書きますね。
 
 
 
 
卒業式で驚いたことが1つありました。
 
 
中学の部活動時代の1個下の後輩と2個下の後輩が、
手紙をくれたのです。
 
 
すごくびっくりしました。
 
 
その子たちとは、高校生では部活も違い、
接点はなくなっていたのですが、
卒業式当日、式が終わった帰り際に、
 
「先輩!」
 
と声をかけてくれて渡してくれたのです。
 
 
 
家に帰って読んでみると、
「先輩は憧れの的で、
実は追いかけて高校を決めました。
部活をする先輩はかっこいいよくて・・・」など、
 
感動することが書いてあるではありませんか。
 
 
 
私は、下の子たちの
希望や憧れになれていたことが嬉しかったです。
 
 
自分自身、悩みまくって、自分なんてダメだ。
と思って苦しい思いばかりだと思っていましたが、
 
 
頑張ってきたことは無駄にはなってない。
 
 
と思えました。
 

 専門学校

 
私は、なんと高校を卒業してから、
東京の専門学校へ行きました。
 
 
北海道の田舎で暮らしていた私が、
いきなり東京の大都会へ。
 
 
不安だらけでしたが、
新しい生活にたまらなくワクワクしていました。
 
 
まあ、現実はそんなに甘くない。
と知ることにはなりますが・・・。
 
 
 
 
専門学校では、
いろんな地域の子たちがいて楽しかったです。
 
 
 
そこで、初めて手袋は
つける物、はめる物というのを知りました。
 
 
え?当たり前だよね?と思ったそこのあなた。
 
 
北海道の私の住んでいる地域では、
手袋は履くものなのです。
 
 
「手袋、履いてね。」
というのが普通であり、
むしろそれ以外に言い方はないと思っていました。
 
 
ですが、それを友達に言うと、驚かれました。
 
「えっ、それは、靴下じゃん!(笑)」
と、笑われたのは良い思い出と良いお勉強です。
 
 
 
 
私は、東京で学校に通いながら
新聞配達をしていました。
3か月だけ。
 
 
家賃や学費のことで
親に迷惑をかけると分かっていたので、
少しでも負担を減らさなきゃ。と思い、
始めたのですが、配達は過酷でした。
 
 
 
 
朝の2:30には起床。
朝、というより夜中です。
新聞をまとめる。雨の日は更にビニールもかける。
バイクに積む。
 
 
乗ったこともなかった原付バイクでしたが、
わざわざ免許を取りに行き、
仕事が出来るようにしました。
 
 
でも、バイクのセンスは私にはなかったようで、
新聞をたくさん積むと、とても重く、
何度も転びました。
 
 
 
そのたびに新聞は全て道路に散らばり、
まとめて積みなおすのは一苦労です。
雨の日は、さらにビニールが滑り積みにくく、
泣きながら積みなおしました。
 
 
 
そんな中でも、事業所内に応援してくれる
優しいおっちゃんもいました。
 
 
頑張れ。と一言だけ声をかけてくれて、
コンビニで買ったカフェオレを渡してくれました。
 
辛かったけど、
人の温かみを感じることが出来ました。
 
 
 
 
そこの営業所の所長さんには、
嫌われていなかったようで、
3か月経ったところでやめることを伝えると、
 
「早めに辞められるようにしてあげるから。」
と言ってくれて、
 
 
私は、無事
AM2:30起きの生活を抜け出すことが出来ました。
 
 
 
辞めるときに、所内のイヤミなおっちゃんには、
「はぁ~、甘いねえ。」
とわざわざ私に聞こえるように近くで言われ、
とても落ち込みました。
 
 
確かに、自分から簡単に始めるとは言ったものの、
結局辛くてやめる。親にも迷惑をかける。
という気持ちは十分にあったので、
その言葉を受け止めざるを得ませんでした。
 
 
 
 
ですが、結果的に、
その後の専門学校ライフは楽しいものとなり、
やめて良かったとも思っています。
 
 
今では、配達員をしていた過去は、
1つの社会経験として、
私の胸の中に大切にしまっています。
 
 
ちなみに、この後、新聞配達を一緒にしていた、
1つ上の先輩とお付合いすることになります(笑)
 
 
 
 
 
新聞配達を辞めてから、
八王子方面に住んでいて、中央線がメインでした。
 
 
初めての一人暮らしで、親のいない空間が新鮮で、
開放感もありましたが、同時に、
実家がとても温かい場所だったことにも
気付くことが出来ました。
 
 
実家が嫌いだったわけではないですが、
1人になりたい。と思うこともたくさんあったので、
出ればスッキリするだろう。
と思っていましたが、間違いでした。
 
 
 
 
学校では、
クラスで仲の良い友達も出来て、よく一緒に遊び、
授業をサボったこともありました。
 
 
ずっと真面目に生きてきた私が、
授業をサボるようになるなんて、
 
驚きですね。
 
 
 
友達と終電がなくなるまで遊び、
カラオケで寝ずに歌い、始発で帰ったり、
夜の9時頃に友達に呼ばれ、八王子の方から
新宿まで出かけたこともありました。
 
 
そんな、プチ悪さを楽しんでいました。
 
 
 
 
専門学校は、高校よりも更に自由ですが、
やる気のない人にわざわざ声をかけてくれるような
優しい人もいなくなります。
 
 
頑張るか頑張らないか、
やるかやらないかは自分次第なのです。
 
 
私は、授業の方はボロボロでしたが、
普通に就職をしようと考えていましたし、
 
とりあえず、卒業は出来るようにしよう。
くらいの気持ちで通っていました。
 
 
 
 
親には申し訳なかったように思いますが、
私には誰にも何も言われずに、
そのちょっとした悪い事を出来たことは
人生の中でプラスになったと思います。
 
 
誰かの目を気にしすぎて生きてきた私は、
親元にいると、親を心配させたくない。
 
という思いが先行し、本当に自分の思うように
遊ぶことが出来なかったと思います。
 
 
 
今では、親に迷惑をかけましたが、
人生の中で思いっきり遊ぶことは
大切だったと思えています。
 
 
それに、少し悪い事を経験できたことで、私の中の
「真面目でいい子」が少し楽になっていたのです。
 
 
 
 
遊ぶときは、自由に遊びやすいのですが、
1人暮らしが教えてくれたことは、
それだけではありませんでした。
 
 
初めて、自分で考えて、
自分の責任で、自分の生活をする。
 
 
ご飯を作ることがこんなに大変で、
掃除をするのがこんなに面倒で、
お金を稼ぐのはこんなに辛くて・・・
 
 
1人にならなければ、
学べなかったことだと思います。
 
 
 
 
 
少しでもお金を稼ぐため、
人生で初めてアルバイトをしました。
 
 
居酒屋さんで働いていたのですが、
鬼の忙しさで、辛くなってしまいました。
 
 
働いている人達も、
完全に私とは違う世界で生きてきたような人で、
人と関わるのが苦手だと思っていた私には、
馴染むのも難しかったです。
 
 
その後、居酒屋を辞め、
ホームセンターで働き始めました。
ここでは、
同時期に入った同い年の子と仲良くなり、
専門学校を卒業するまで続けることが出来ました。
 
 
 
 
学校の斡旋で、舞台の物販のアルバイトがあり、
面接を受けました。
 
 
受けた人数が結構多かったのですが、見事合格し、
現場のお台場まで10日間ほど通っていました。
 
 
 
東京の土地勘がある方は、分かると思いますが、
八王子からお台場は遠いのです。
 
 
家を出てから、
目的地に着くまで2時間弱かかります。
 
 
お台場についてからコンビニで
モンスターエナジーを購入し、毎朝飲んでました。
 
 
よくやってたな。
と自分でも思いますが、交通費支給で、
時給も日給1万だったので、好条件だったのです。
 
 
 
そして、物販の仕事も好きでした。
みんな初めてやる子たちが多く、
助け合いながらやっていました。
 
 
不思議と毎日行くのが楽しくて、
苦しいとは1度も思わなかったのです。
 
 
その他にも、派遣会社に登録し、
単発で出来る仕事を探して、
1日や2日行ったりしていました。
 
 
ライブの物販や、
ハロウィン仮装パーティーの列の整理係や、
TVショッピングの安売り販売の会場準備
などをしました。
 
 
 
 
 
そして、1年生が終わり、2年生になったある日、
初めの舞台物販の仕事をした会社から、
私のもとにメールがありました。
 
 
子ども関係の仕事があるのだが、やらないか。
という内容でした。
 
 
私は、すぐにOKと返事をし、仲の良かった友達を誘って
一緒に働くことにしました。
 
 
そこで初めて子どもと関わる仕事をしました。
とても楽しかったです。
 
 
 
会場があり、入場前に保護者と子どもに、
お願いやお知らせを伝える係があり、
 
準備体操代わりに、
踊りを踊らなければなりませんでした。
 
 
 
踊りは得意ではなかったですが、
人前に出て話すことは好きだったので、
歌のお姉さんのような気分で
楽しくやっていました。
 
 
子ども達が遊んでいる姿をみると、
こちらも楽しくなりました。
 
子どもが塗ってくれた
ぬりえをもらったりもしました。
 
 
 
 
心のどこかで、子どもと関わる仕事っていいな。
と思い始めたのはこの時からです。
 
 
その前までは、実は子どもは苦手でした。
何を話せばいいか分からないし、
どう接していいのかも分からなかったからです。
 
 
人生、何があるか分からないものですね。
 
 
 
 
2年生の後半は、
単位を落とさないよう授業へ行きながら、
就職活動を始めました。
 
 
ハローワークへ行ったり、
学校に来る求人をチェックしたり、
履歴書も初めて書きました。
 
 
 
どこも書類で落とされることが大半だろう。
と考え、履歴書を送りまくっていたのですが、
 
舞台物販が楽しすぎた経験から、
仕事内容が物販だったり、
人と接する仕事がいいと思っていました。
 
 
 
これは
今でも変わらない思いの部分でもありますが、
初めて就職する時に思ったのは、
 
私は人を笑顔にする仕事がしたい。
 
という漠然とした思いがありました。
 
 
それは、今でも変わっていません。
 
 
直接的に笑顔に出来るかは分かりませんが、
 
カウンセリングをして、人の心に寄り添うことで、
少しでもその人に心の余裕ができ、
生きやすくなることで、
笑顔も増えていくと思っています。
 
 
 
 
就活の中でも、面白い経験が出来たのは、
大手のミュージック製作等を行っている会社です。
 
 
ライブハウスの運営等もやっていたので、
楽しそう!やってみたい!
 
という軽率な気持ちで受けました。
 
 
 
最初は、
履歴書ではなく自分なりに動画をとって送ってくれ。
という珍しい内容でした。
 
 
私は、スマホで撮影しながら
自分のやりたい事などを話し、動画を送りました。
 
 
すると、なんと、
面接に来てくれという案内が届いたのです。
 
もしかしたら、送ってきた人全員、
第一面接までは通しているのかもしれませんが・・・
 
 
 
 
そして、面接日、電車に乗って
都内の大きいビルで面接をしてきました。
 
 
結局、緊張して、
聞かれた内容があまりにも高度な内容すぎて、
 
軽率な気持ちで受けていた私は、
全然答えられず撃沈でした。(笑)
 
 
いい思い出にはなりましたけどね。
 
 
 
 
 
その後もいろいろ探し、最終的に、
都内のアミューズメント施設を運営している会社へ
入社することになりました。
 
 
そこでも、変わった面接をしました。
面接では、自分の得意なことを
プレゼンテーションしてくれという内容でした。
 
 
 
私は、特技など1つもなかったので、
困りましたが、折り紙を披露することにしました。
 
 
折り紙なんて本当は得意ではなかったので、
折り紙の本を借りてきて、丁寧に折り、
画用紙に貼り付け、見た目も華やかにしました。
 
 
製作時間も結構かかりましたが、
あとは、上手くプレゼンすれば完璧でした。
 
 
アイデアマンではあったので、
思考を凝らしながら、楽しいプレゼンにし
相手を引き込むことに成功したのです。
 
 
 
 
 
その他にも、実は、
昔から自分の第一印象だけは自身がありました。
 
相手に良い人だと思わせるのが
上手だったのだと思います。
 
 
 
こうして、無事、就職先が決定した私は、
安心して学校を卒業しました。
 
 
 
 
本当の地獄は
ここからだということも知らずに・・・
 

 社会人 1社目~メニエールになる~

さあ、皆様、長くなってまいりました。
ぴよ。もやっと社会人です。
 
私は何度か転職もしていますが、まずは1社目です。
 
 
 
 
アミューズメント系の会社では、
イベントの司会をやらせてもらったりもしました。
 
 
同期の子とも一緒の配属先になり、
楽しく働いていたのですが、わずか3か月ほどで
いきなり他の事業を担当することになりました。
 
 
不安はありましたが、
新しいことに挑戦するのは好きだったので、
やってみることにしました。
 
 
3か月しか住んでいない家を解約し、
新しい土地で部屋探しをして、家賃補助を
もらいながら仕事をすることにしました。
 
 
 
 
そうそう、この3か月の間に、
私はストレスからか、血尿がでます(笑)
 
 
病院で診察を受けた結果、膀胱炎だったようです。
抗生剤を飲むとすぐに治りました。
 
 
ですが、もちろん、
もう一生体験しなくていいと思っています。
 
 
 
 
そして次の仕事というのが、
フィットネスクラブ業だったのですが、
 
人に教えられるようになるまでには、
何度も研修をしたり、知識も覚えなければならず、
かなり大変でした。
 
 
資格を無事に取得し、働き始めたのですが、
働いている人達の仲がよくなく、
私は板挟みになってしまったのです。
 
 
苦しくて、全体ミーティングの時に、
自分の思いがうまく言えず、
涙が出て過呼吸になってしまいました。
 
 
 
 
この頃から、徐々に精神的不調が強くなります。
 
耳の聞こえが悪くなり、
電話などが聞き取りづらくなっていきました。
 
 
 
ある日の朝、目が覚めると
今まで感じたことのない目眩を感じ、
歩けなくなったのです。
 
 
不安になり、動くことも出来なかったので、
布団に入りもう一度、横になりました。
 
 
次に目覚めたときには、目眩は治まっていましたが、
耳は相変わらず痛いような、
詰まっているような感じだったので、
すぐに耳鼻咽喉科へ行きました。
 
 
いくつか検査をし、
先生からはメニエール病だと言われました。
 
 
 
そして、まずいシロップを飲み、
目眩と耳の違和感と闘いながら
仕事をしていました。
 
 
 
 
 
ですが、病状はよくならず、
精神科にも通うことになりました。
 
 
初めての精神科はとても不安で、先生の言うことも
何となく信用できず、病院を変えました。
 
 
 
一緒に働いていた人が、
カウンセリングへ行ってみたら?と勧めて下さり、
初回無料のカウンセリングへも行きましたが、
 
私の心の中のプライドと、人を信じることが
出来なくなっていたのと、お金がかかってしまう。
 
 
という思いで、結局、カウンセリングは
初回のみで行かなくなってしまいました。
 
 
 
 
その時のカウンセラーさんに言われた
 
 
あなたは、きっと
カウンセリングを受けた方が良いと思うよ
 
 
という言葉が今でも耳に残っています。
 
 
 
 
きっと、私も薄々気づいてはいたのです。
 
誰かに話して、心を癒してもらいたい。
という自分の本当の思いに。
 
 
 
 
ですが、私は昔からお金に対する不安が強く、
かなり節約家でした。
 
 
母親は、お小遣い帳をつけるということを
覚えさせたかったようで、小学1年生から
毎月100円をもらっていましたが、
使わずに貯めていた方だと思います。
 
 
 
 
そんな金銭面の不安は、大人になっても消えず、
 
病院代に、カウンセリング代、
光熱費や食費のことを考えると、
月の出費を少しでも削りたかったのです。
 
 
今思うと、
 
カウンセリングを受けるべきだった
 
と思います。
 
 
 
 
 
そして私は、ついにお店を開ける日に、
怖くて行くことが出来なくなり、
泣きながら休みの電話を入れました。
 
 
 
もう無理だと限界を感じ、
仕事を辞め、地元に帰ることにしたのです。
 
 

 社会人 2社目~”不安障害”になる~

地元に帰った私は、実家で暮らしていたので、
生活費に困ることはなかったのですが、
 
 
精神的に追いやられてしまったことと、
もともと自己肯定感も低いせいもあり、
 
 
自分はダメな人間だ。
とにかく仕事探しをしなくては。
と思い、すぐに仕事を探し始めました。
 
 
 
 
 
母親も事務仕事の経験者だったことから、
次は事務にしようと思い、何社か受けました。
 
その中の1社に就職することが決まり、
無事に事務の仕事を始めました。
 
 
 
 
精神的な病気で
前職を辞めたことは言いませんでした。
 
 
特に、診断名がついているわけでもなく、
自分でも何と説明すればいいのか
分からなかった部分もありますし、
 
 
そんなこと言ったら”普通”ではないと思われるし、
絶対受からない。と思っていたので、
伏せておきました。
 
 
まだこの頃も、
普通”であることにこだわっていました。
 
 
 
 
 
 
事務の仕事は最初の頃は、
いい仕事だと思いましたが、
どんどん上司と合わなくなっていったのです。
 
 
 
仕事が出来ない私のことを、
上司はイライラしていたと思います。
 
 
言葉でこそ言わないものの、
そんな雰囲気を感じ取ってしまい、
 
私もどんどん上司が苦手だ
という意識が強くなっていきました。
 
 
 
仕事へ行くのが辛くなってきて、
精神科にかかりましたが、そこは私と合わず、
薬をたくさん処方されましたが、副作用も多く、
先生の感じも私には合わなくて、
 
 
この病院に通っていていいのかな?
と思い始めるようになりました。
 
 
 
 
 
私の気持ちは
気付かないほど少しずつ悪くなっていました。
 
 
仕事に行くのが嫌だな → 
夜眠れないし、朝起きるのが辛いな → 
なんだか食欲ないな → 
日曜の夕方が怖い → 
月曜の朝、仕事に行く直前まで起きられない。
 
 
 
長期的に食欲がなかったので、
かなり体重も落ちました。
 
 
 
上記のような症状はあったものの、
まだ、月曜の朝さえ頑張れば、
火曜からは割と楽に行けていたので、
 
 
辛いのは今だけだ。と自分に言い聞かせ、
無理やり仕事へ行っていました。
 
 
 
 
 
ですが、ある日の朝、
朝ごはんを食べ終わると突然涙が出てきて、
椅子から立ち上がれなくなったのです。
 
 
 
 
「仕事へ行けない。」
 
 
 
と母親に一言だけ弱音を吐きました。
 
 
正直、母親とは
確執のようなものがあると思っていたので、
自ら相談するのは躊躇っていました。
 
 
ですが、
仕事で徐々に弱っていく私を見ていたからか、
「今日はお休みしたら。」
と声をかけてくれました。
 
 
 
 
電話をすることも怖かったのですが、
震える声を抑えながら電話をし、
体調不良で休むことを伝えました。
 
 
 
 
私は、これはさすがにおかしいと思い、
病院へ行こうと思ったのですが、
もう何もする気は起きず、
布団に横たわることしか出来ませんでした。
 
 
 
 
当時、お付合いしていた彼が
たまたま休みだったことを思い出し、
病院へ連れていって欲しい。とお願いしました。
 
 
彼は私の身を案じてくれて、
私がもともと通っていた精神科ではなく、
私の住む地域では一番規模が大きい精神科へ
転院させてくれました。
 
 
 
 
私にとっては、これは
 
大きなターニングポイント
 
の1つであると思っています。
 
 
 
 
転院は簡単ではありませんでした。
 
以前、通っていた病院に紹介状などを
取りに行かなければならず、
 
紹介状を書いてもらうのに、
何日かかかる場合もあります。
 
 
 
その面倒な手続きを、
彼は1人でやってくれたのです。
 
しかも、以前の病院に無理を言って、
すぐに紹介状も書いてもらってくれました。
 
 
 
とても有難く、
今でも本当に感謝の気持ちでいっぱいです。
 
 
それがなければ、私は今、こうしてこの活動を
することが出来ていなかった可能性もあります。
 
 
 
 
 
転院先の病院は、
大きくて患者さんもたくさんおり、
私は初回の診察で、しかも予約もしていない。
 
 
 
ということで、かなり待ちましたが、
先生が何とか見てあげると言って下さり、
無事その日に診察を受けることが出来ました。
 
 
 
 
今までの経緯や症状を
彼に手伝って貰いながら話すと、その先生は、
 
 
 
「ストレスの原因から離れるのが
1番早く治る方法だよ。すぐ休みな!」
 
 
 
と言って、速攻で診断書を書いて下さりました。
 
私の精神症状に初めて診断名が付きました。
 
 
 
 
不安障害。
 
 
 
 
ということでした。
 
 
 
 
 
その先生はとても私に合っていると感じました。
 
 
薬はそんなにいっぱい飲まなくても大丈夫。
まずはこれを1錠飲んで様子見てみてね。
と言って、
 
「セルトラリン」
というお薬を処方してくださりました。
 
 
お薬の注意事項もしっかりと説明してくださり、
とても分かりやすかったです。
 
 
 
 
どうやら、不安障害の原因は心、
というよりは、脳内のセロトニンという物質が
減少することで起こるもののようでした。
 
 
なので、セルトラリンという薬を使い、
脳内のセロトニンを増やす。
という治療内容だったようです。
 
 
 
 
 
この時は、なるほど。
としか思ってなかったのですが、
後にこれは「心の病」と呼ばれるものは、
 
 
脳の機能障害なのではないか?
 
 
と考え始めるきっかけとなります。
 
 
 
 
なので、今の私の考え方は、
うつ病も「心の風邪」ではなく、
 
 
「脳の骨折」
 
 
とでも言われた方がしっくりくると思っています。
 
 
私のイメージ的に
「心」という言葉が入ってしまうと、
 
 
じゃあ、気の持ちようで何とかなるよね。
 
 
という考えになる人が
多くなってしまいそうで怖いのです。
 
 
 
 
 
その後は、
最初は飲み始めて副作用等が出ないか心配なので、
一週間後また来てください。
 
というような流れでした。
 
 
 
そして、しばらく病院へ通い、
薬も飲み続け少し回復の兆しが見えてきた、
 
 
ある日の診察で、
先生はこんな事を言っていました。
 
 
「これで、治ればもう来なくてもいいからね~」
 
 
私はハッとしました。
 
 
病院って行かない方が良いところだと
気付いたのです。
 
 
 
持病がある場合などは別ですが、
 
私の病気や症状に関しては、気持ちが落ち着き、
自分で歩んでいけるようになれば、
行かなくてもいいのです。
 
 
 
 
その時から、私の中で病院の先生で、
 
治れば来なくても大丈夫だよ。
 
と言ってくれる先生を
信じるようになりました(笑)
 
 
 
 
 
 
話は少し戻りますが、不安障害と診断がつき、
翌日、会社へ出勤し、すぐに提出しました。
 
 
周りの人は大丈夫?
と声をかけたりしてくれましたが、
「な、なんとか。」と答えるので精一杯でした。
 
 
 
 
この期に及んで私はまだ、
自分の責任を感じており、
 
 
出来る仕事はやってから休みに入ります。
 
 
と言ってしまったため、
一週間ほど出勤してから
長期の休みに入ることにしました。
 
 
 
 
 
休み中は、気持ちがしんどかった時もありますが、
母親と過ごす時間が増えたり、
1人で買い物へ出かけたり、
 
 
付き合っていた彼氏と別れ、
また新しい彼氏が出来たり、
それなりに生活が出来ていました。
 
 
 
 
 
 
少し休むことが出来て、少し回復してきたかな。
と思っていたその矢先に、彼が浮気をしたのです。
 
 
とても、ショックでした。
 
 
それ以上、突き詰めることはしませんでしたが、
私は1週間寝込みました。
 
 
 
 
 
仕事もないし、浮気もされるし、
 
 
いっそ本気で死んでやろうか。
 
 
と考えたのもこの頃です。
 
 
 
 
以前から、死にたい。と思うことはありましたが、
本当に死んでしまおうと、
死ぬ方法まで考えたのはこの時が初めてでした。
 
 
 
 
浮気に関しては、
完全におまけのようなものでしたが、
 
 
なぜ、私は周りの人と上手く
コミュニケーションを取れず、
苦しい思いをするのだろう。
 
 
 
 
なぜ、こんなに生きづらいのだろう。
なぜ、死にたくなってしまうのだろう。
生まれたくなかった。
 
 
 
 
 
など、本当にいろいろな負の感情と出会いました。
 
 
 
 
 
気付けば、過去の記憶まで遡り
苦しさを思い出してしまっていました。
 
 
 
結果、思い出したからこそ、
小さいころから
生きづらかったことには気付けましたが、
 
 
当時の苦しむ心の中では、
ただただ辛いとしか思う余裕はありませんでした。
 
 
 
 
この時の私は、こんなに弱い自分はダメだ。
 
 
もっと強くなりたい
 
 
心を強く持てば、
こんな苦しい事にはならないんだ!
と思っていました。
 
 
 
今だから言えることですが、
例え心が強かったとしても、
同じようになるでしょう。
 
 
 
 
 
そもそも、強い弱い。の問題ではないですし、
心の強さなど測ることも出来ないのですから。
 
 
 
 
 
そんな中、
母親がとても優しく接してくれたのです。
 
 
何だか、
私の思っていた母親とは違うように感じましたが、
 
 
この時に、辛い気持ちを初めて
母親に話すことが出来たのです。
 
 
この頃から少しずつ、
母親に心を開けているような気がします。
 
 
 
 
 
そこから、私は何とか立ち直り、
事務職も辞める決意をして退職をしました。
 

 社会人 3社目(パート)~保育士資格を取る~

私は、本気で死のう。と考えてから、
立ち直りかけの時にこんなことを思いました。
 
 
 
 
「今までの貯金が少しある。どうせ死ぬなら、
これを使い切ろう。いや、どうせ死ぬならもう1度
何かに挑戦して、ダメだったら死ねばいいのではないか?」
 
 
 
そう思えてからの立ち直りは早かったです。
 
 
 
私には、やってみたいことがありました。
 
保育士です。
 
 
 
私は浮気をされた彼に、
こんなようなことを言われました。
 
 
 
「もっと、ちゃんと
俺のことを気にかけて欲しかった。」
 
 
 
いやいやいや!
すごく彼のことばかりを考えていたし、
彼に対して気も使っていたつもりだし、
気にかけていたし、面倒見もよかったはずだよ!と。
 
 
 
こんなことを言われたのは初めてで、
衝撃的でしたが、もう私の耳には彼の浮気の
口実にしか聞こえてきませんでした(笑)
 
 
 
 
 
ですが、そこで気付いたのです。
 
 
私は、昔から妹がいて、
面倒見がいいと思っていたし、
子どもと関わる仕事もやってみたかったと。
 
 
別れ方は、最悪でしたが、
彼は大事なことに
気づかせてくれたと思っています。
 
 
 
 
 
私はまず、ハローワークへ通い、資格なしでも
雇ってくれる保育園や幼稚園はないか、
探しに行きました。とにかく、
保育の現場を体験してみようと思ったのです。
 
 
 
 
そして、雇ってくれそうなところを見つけ面接に行くと
 
とある幼稚園でパートとして
雇ってもらえることになりました。
 
 
 
 
気合を入れて、いざ現場へ。
大変だと感じましたが、子ども達は可愛いし、
職場環境にも恵まれ、とても働きやすかったです。
 
 
 
私は、
保育士になってまた正職員で働けるようになろう。
 
 
と決めました。
 
 
 
 
 
 
ですが、今思うと、その当時はパートだったので、
だいたい午後3時には終わるという
時間の短さも良かったのだと思います。
 
 
 
規模の大きなところだと、やはり、
1人1人から受け取る情報量も多くなってしまい、
疲れも溜まります。
 
 
この時はまだ
HSPという言葉には出会っていませんが、
 
 
同じ職場の先生たちがとてもいい雰囲気で
仕事をしていたので、私も頑張りたい。
少しでも力になりたい。と思えていたのでしょう。
 
 
 
 
 
いよいよ、本格的に通信講座で
保育士資格を取得するため、
勉強することにしました。
 
 
ちなみに私は、
ヒューマンアカデミーの
保育士通信講座にしました。
 
 
 
保育士の試験は、筆記試験9科目、
実技は音楽・言語・造形の3つから、
どれか2つを選んで受験。という形です。
 
 
 
 
まずは、筆記試験に合格しないと
実技は受けられないので、
9科目を必死に勉強しました。
 
 
 
9科目と聞くと多い気もしますが、
内容により
出題範囲が重なっている部分も若干あるのと、
 
 
マークシート形式の試験で
6割正解すれば合格なのです。
 
 
 
 
試験日程は、4月と10月の半年に1回あり、
私は勉強を始めたのがちょうど4月頃だったので、
次の10月の試験を目指しました。
 
 
 
 
とにかく、毎日語句を覚えたり、
練習問題を積み重ね、試験当日。
 
 
 
9科目あるので、試験日は2日間あります。
 
 
1つ1つ自己採点をして、
 
2日目の子どもの食と栄養で、私は絶望しました。
 
 
どう考えても、合格点まで足りないのです。
 
 
あと2つほど正解していれば足りるのですが、
これは厳しいと私は肩を落としました。
 
 
 
 
 
後日、試験結果が来ると、
やはり、子どもの食と栄養がダメでした。
 
 
その1科目が受かっていれば、
すんなり実技試験へ行けたのに。と思うと、
ショックでちょっと落ち込みました。
 
 
 
 
 
ですが、次の試験は来年の4月です。
それまで少し時間があるので、
ショックな気持ちが落ち着いてから、
また勉強を始めることにしました。
 
 
 
私は意外と頑固で負けず嫌いな部分もあるため、
あと1教科のところで諦めるわけにはいきません。
 
 
その1科目を毎日勉強し、
さらに実技の勉強の勉強も始めました。
 
 
 
 
私は、壊滅的にお絵かきが下手くそです。
 
なので、
実技試験は音楽と言語で決まっていたので、
その2つを徹底的にやりこみました。
 
 
 
 
筆記試験や実技試験の詳しい話は、
また別でブログにしたいと思います!
 
 
 
 
翌年の4月、無事に私は筆記試験に
合格することが出来ました。
 
 
 
実技試験は6月にありましたが、
こちらも合格することが出来、
念願の保育士資格を手に入れたのです。
 
 
 
ちなみに、
保育士と幼稚園教諭は実は別物なので、
 
 
私の場合は、
保育士資格のみということになります。
 
 
 
 
 
そうして、私は2年間、
パートで働きながら資格を取得しました。
 
 
 
働いて子どもと関わっていくうちに、
 
 
私は、1人1人の話をしっかり聞き、
丁寧に対応できることが強みだと気付き、
少人数の保育の方が自分には合っている事。
 
 
 
そして、
子どものころから自己肯定感を育てる
 
 
 
というのが大切だ。
 
ということに気付きました。
 
 
 
 
あと、もう一つ、未来を担う子どもたちに、
私のように自己肯定感が低く、
生きづらい人生を送ってほしくなかったのです
 
 
 
 
 
子は宝です。いえ、子でなくても人は宝です。
 
 
 
みんなが生きやすくなれば、
きっと自殺をする人も減り、もっと一人ひとりが
自分の持つ能力を発揮できるのではないか。
 
 
 
と私は考えています。
 
 
 
 
 
正職員として働けるように、
ハローワークへ求人を探しに行き、
無事に次の職場も決まりました。
 
 
 
 
退職の日。
 
私は今まででこんなに
祝福された退職は初めてでした。
 
 
 
保護者の方や、
先生たちに温かい声をかけてもらえて、
本当に感謝しております。
 
 
 
ここで雇ってもらえなければ、
保育士は諦めていたかもしれません。
 

 社会人 4社目①~HSPを知り受診~

念願の保育士として正職員になれた私ですが、
ここではちょっと遠くへ勤務することになります。
 
 
街の大きな園ではなく、少し離れているけれど、
少人数保育の場所にしたのです。
 
 
 
 
 
ですが、ここで私はこんな保育があっていいのか。
と思うことになります。
 
 
私が正しくて、相手が間違っているとか、
そういうことではないです。
 
 
 
ただ、私の思う保育と
相手の思う保育が違っていただけだと思います。
 
 
 
世の中、生まれた世代も育ってきた環境も
違う人ばかりですから、価値観が合わないなんて
いくらでもあることなのでしょう。
 
 
 
 
ですが、私は頑固であると自覚しており、
自分の信じる道に当てはまらないことがあると、
どうしても、苦しくなってきてしまいます。
 
 
 
それでも、相手の方のやり方も
素敵だと思う部分ももちろんあり、
結局1年間はここで働くことになります。
 
 
 
 
ここで1つだけ言い訳をさせてもらうと、
後で聞いた話では、
過去にその方と一緒に保育をした先生も
合わずに辞めている人が何人もいたそうです。
 
 
理由は、やはり、
子どもに対する接し方が納得いかない。
というような理由でした。
 
 
 
 
 
 
そんな中、私は生きづらさや
周りの人に合わせられない事の苦しさについて、
いろいろと調べ始めると、
 
 
 
HSP
 
 
 
という文字が目に飛び込んできました。
 
 
ネットの記事を読み漁っていると、
私は間違いなくこれだ。と思いました。
 
 
 
 
HSPだから生きづらかった。
というわけではないです。
 
 
 
非HSPの方も、
生きづらさを抱えている方もいるでしょうし、
HSPでも生きづらさを抱えずに
生きてきた人もいるでしょう。
 
 
 
私も、
HSP=生きづらい。というわけではなく
 
 
 
 
 
HSPという気質を知らなかったので
対処が出来ていなかったことと、
 
 
自己肯定感が低かったのも
原因の1つにあると思っています。
 
 
 
 
 
もちろん、これだけではなく、
他にもいくつも原因はあったと思います。
 
 
 
生きづらい原因は1つではなく
きっと複雑に絡み合っているのではないか。
 
 
 
と今は思っています。
 
 
 
 
 
ですが、この気質を知れたのは私にとっては、
お宝だったと思っています。
 
 
 
自分の気質を知り、
それに対処をしていけるのですから、
 
 
生きづらさを減らせる。かもしれない
 
 
 
という希望には繋がりました。
 
 
 
 
 
どんどんHSPを調べていくうちに、
私は1つのクリニックに出会います。
 
 
どうやらHSPに詳しい先生がいるらしく、
しかも私の家から通える範囲にあるのです!
 
 
 
 
これは行くしかない。そう思いましたが、
私は実は精神科に行くのはちょっと苦手でした。
 
 
 
 
自分が何で悩んでいて、
どうしたいのか話すのが苦手だったからです。
いざ、先生を目の前にすると、
何でここへ来たのか話せなくなってしまうのです。
 
 
 
 
 
しかも、精神科は混んでいて、
いつ受診できるかも分かりません。
 
 
 
しばらくの期間悩みましたが、
どうしても行ってみたい。
 
という一心で電話を掛けましたが、繋がらず、
私はクリニックへ足を運んでみることにしました。
 
 
 
 
 
すると、次に新患の予約を取れるのは、
 
なんと3か月後!
 
 
 
でも、私は待つことにしました。
以前通っていた大きい病院は
もうしばらく行ってなかったのですが、
 
 
一応、紹介状を取ってきてほしい
とのことだったので、取りに行きました。
 
 
 
 
 
そして、初診の際に必要な問診票を書いてくれ
と言われ、びっくりするくらい多い枚数の
問診票をもらいました。
 
 
そこには、自分の名前や住所から、
HSPセルフチェック、自分の悩みや困りごとを
記載する用紙など様々でした。
 
 
 
その他にも、書ききれなければ、
他の紙に書いてもいいとのことだったので、
コピー用2枚分くらい書きました(笑)
 
 
 
 
他にも、小さいころの成績表や
自分の過去の作品なども提出してください。
とのことだったので、
 
 
真面目な私は、実家に残っていたものを
とにかくたくさん持って行ったのですが、
 
 
「わあ!多いね!!」
と事務の方にちょっと驚かれました(笑)
 
 
 
 
 
そして、3か月後、
初めての受診日で私は緊張していました。
 
 
いろいろ聞かれたと思いますが、
あまり覚えていません。
 
 
ですが、声紋検査を初めて行い、
 
現代の医学ってすごいなあ。
 
と感じたのが印象的ですね。
 
 
 
 
 
そうして、私はHSP気質ACの傾向があります。
 
 
という診断をしてもらうことが出来ました。
 
 
 
ちなみに、
HSS傾向も入っているとも言われています。
 
 
 
 
HSPやACは、私の感覚では診断というよりは、
確認に近いものでしたし、
 
 
 
 
HSP自体病気ではないので、
診断という言葉は少し違うのかもしれませんが、
一応しっかりとしたクリニックであるので、
 
 
診断。という言葉を使いました。
 
 
 
 
 
ここにきてやっと、HSS型HSPの自分
 
 
と向き合うことが出来たのです。
 
 
 
 
 
仕事の方は、3月になり結局、
一緒に働く先生と合わずに
異動をすることにしました。
 
 
 
 
その時、私は初めて人前で泣きながらでも、
自分の思いや意思を伝えようと頑張りました。
 
 
 
 
 
結果的に、号泣しすぎて上手に喋れないし、
やっぱり過呼吸にもなるし、傍から見ると、
昔と何も変わっていないように
見えたかもしれません。
 
 
 
 
周りの先生にも
 
「あなたは言ってはいけない事を
言っちゃうよね。」
 
 
と言われたりもしました。
 
 
 
 
 
ですが、
私の中では、それでも良かったと思っています。
 
 
 
分かってもらえてなくても、
号泣しすぎて変な奴と思われても、
 
 
自分と向き合い、
自分のありのままを受け入れていく
第一歩になったと感じています。
 
 
 
 
この頃、私は26歳です。
 
 
 
 
 
 
そこから、かなり急に異動が決まったので、
バタバタと忙しくなりながら
次の勤務先へ向かうことになります。
 
 

 4社目② ~現在まで(2020年9月)

ここまでお付き合いいただき、
本当にありがとうございます。
 
 
いよいよ、最後の章です。
 
 
 
 
 
次の勤務先は大きな園でした。
ちょっと不安は抱えながらも気合は十分な私です。
 
 
 
 
ですが、すぐに不調は現れ始めます。
以前の場所からのストレスを引きずり、
休む暇がなかった。
 
 
というのもあったのかもしれません。
 
 
 
 
 
周りの人のように上手くできない自分が
苦しくなってきたのです。
 
 
私が勝手に自分は出来ていない。
と思い込んでいたのかもしれません。
 
 
ですが、苦しいものは苦しいのです。
大きい園では、
子どもも多い分もちろん大人も多いです。
 
 
 
そして、マルチタスクが
苦手な私にとっては忙しい日々です。
 
 
 
全て自分がやらなければ、
自分が抱え込まなければ。
 
 
という気持ちになってしまい、
他の人を頼ることを忘れていました。
 
 
 
 
 
こうして書いていると、
私の弱点は何でも一人でやりたがり、
自分一人で頑張ってしまうことのようです。
 
 
 
なかなか、他人に相談することが出来ないのです。
自分ではやってきたつもりですが、他の人からは
そうは見えていないし、足りないようです。
 
 
 
 
長年そうして生きていたので、
簡単に変えることも出来ません。
 
 
 
 
ですが、
これは強みにもなってくれるのでは。
 
 
 
と気付くのは、このすぐ後のことです。
 
 
 
 
 
 
ひとまず、そうして働いているうちに、
周りの先生たちの雰囲気も、
 
 
明らかに私に対して困っている感じが
伝わってくるようになってしまいました。
 
 
 
苦しいけど、頑張らなきゃと思い、
気合で乗り切っていましたが、
 
 
過去の状況と何も変わっていなかったのは
言うまでもありません。
 
 
 
 
 
 
結局私は、仕事を初めてすぐに苦しくなり、
休職することとなります。
 
 
 
具体的に、
どのような症状が出たかと言うと・・・
 
 
・動悸、息切れ
・朝から昼にかけての不調
・口の渇き
・眠れない
・食欲がない
 
 
こんなところです。
 
 
 
私は過去の経験からこれはやばい。
と気付き、受診し、
すぐに診断書を書いてもらえることになりました。
 
 
 
診断書も安くはないのですよ。
まあ、その辺の話はまたの機会にします。
 
 
 
 
診断名は、
 
 
抑うつ不安状態
 
 
です。
 
 
 
 
 
そして、翌々日からさっそく休職しました。
 
 
休職するまでの何日間かの詳しい話を、
日記として書き留めているので、
これも後日、載せられればいいなと思っています。
 
 
 
 
始めは、眠れず、食べられず、朝は起きられず、
昼過ぎから行動するのがやっとでしたが、
 
 
休職を決めたのが早かったおかげもあり、
何日かゆっくり過ごしていると少しずつ
気持ちも落ち着く日が増えていき、
体調のいい日も増えていきました。
 
 
 
 
 
そして、私は、フリーランスという働き方を
目指してみることになったのです。
 
 
 
 
今までの人生で全く選択肢になかった働き方で、
どうすればいいかも分からないし、
方向性も決まっていないし、
 
 
パソコンを買うところから
始めなければなりませんでしたが、
 
 
人生、まだまだ挑戦してみてもいいのではないか。
 
 
と思っています。
 
 
 
 
 
 
先ほど、私の弱点を少し書いたのですが、
もともと自己肯定感が低いので、
自分の悪いところならいくらでも出てきます(笑)
 
 
 
他には、人を信じきれないところ、
話すのが下手くそなところ、
 
 
他人と会話していると
考えていることの量が多すぎて、
 
 
さらに話している相手にとっての
正解を考えてしまい、
自分の意見が言えなくなるところ、
 
 
すぐ相手に飲まれてしまうところ、
流されやすいところ、
 
 
会話が終わった後に
言いたいことが出てきてしまうこと・・・
 
 
 
などなど、きりがありませんね。(笑)
 
 
 
 
 
 
 
ですが、これはもしかすると、
強みにもなり得ることなのではないでしょうか?
 
 
 
 
他人に助けを求められないのは、他人に頼らずとも
自力で頑張ることが出来るということ。
 
 
人を信じきれないのは、
ハッキリとした自分の意思を持っていて、
人を信じるのに時間がかかるだけ。
 
 
話すのは下手くそだけど、書くのは得意だから。
 
 
相手の正解を考えてしまうのは、
私が人の心に寄り添うことが出来るから・・・
 
 
 
 
など、世の中、意外と
 
 
 
悪いだけも、良いだけもないのかな。
 
 
 
と思っています。
 
 
 
 
 
 
 
悪さの中に良さがあったり、
良さの中に悪さがあったり、
 
 
 
 
 
 
 
最終的には、
 
 
 
自分はどの意見を取るか。何を見るか。
 
 
 
が1番大事なのだろうと思います。
 
 
 
 
 
 
そう考えていると、今の私の症状等も、
 
 
 
全て個性と思っていいのかな。
 
 
 
と考えています。
 
 
 
 
 
 
 
気分の波が激しいから治さなきゃ!
 
 
ではなく、日ごろ頑張っているから、
たまたま疲れが出てしまった日であり、
それは私のスタイルであり個性なのです。
 
 
 
 
そういう日は休めばいいだけです。
 
 
もしかしたら、フリーで動いているから
出来ることかもしれませんが、私にとってはそれが
本来の自分の姿でもあるのですから、
 
 
これが楽ならこれでいい。と考えられるように、
少しずつなってきています。
 
 
 
 
 
 
これを他人に押し付けるつもりはありません。
 
 
仕事の都合だって、家族の都合だってあるし、
そんなこと出来ないよ!という人がいるのも、
分かっているつもりです。
 
 
 
もしかしたら、これを読んだ人の中には、
私のことを羨ましいと思う人もいるかもしれませんし、
 
 
私のようにはなれない。
と思ってしまう人もいるかもしれません。
 
 
 
 
でもきっと、
 
 
私のようになってしまっては、あなたには合わない
のです。
 
 
 
 
 
私の人生は、私のものであり、
私に最適な道だっただけであり、
 
 
100人いれば100通りの人生があり、
それぞれ抱えているものも違い、
 
 
苦しさ辛さも
他人と比べられるものではありません。
 
 
 
 
 
その人が辛いと思えば、辛いのです。
その人が苦しいと思えば、苦しいのです。
 
 
 
 
 
 
 
 
自分だけの生きやすさを見つけることこそが、
皆の自己肯定感を上げ、生きづらさを減らし、
自殺率の減少にも繋がっていくのではないか
 
 
 
 
 
と、私は考えています。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
私はまだまだ、道の途中です。
 
 
 
人生に迷うことも、悩むことも、
まだまだあるでしょう。
 
 
精神的に苦しむ日も、辛い日も、
まだまだあるでしょう。
 
 
 
 
助けを求めることが苦手な私ですが、
もしも、そういう日があったら、
皆さん、どうか助けてくださいね。
 
 
 
 
 
少しずつでもいい。
 
世の中に
生きづらさを抱えている人が減ってほしい。
 
 
 
 
 
 
という思いは、変わらず持ち続けます。
 
 
活動もスローペースではあるかもしれませんが、
続けていきます。
 
 
 
 
 
 
 
もし、今、
辛さや苦しさを抱えている人がいるならば、
お話ししてみませんか。
 
 
 
 
 
 
 
私も一緒に、
心に寄り添いあなた自身の生きやすさ
 
 
 
を見つけるお手伝いをさせていただきたい。
 
 
と思っています。
 
 
 
 
 
 
 
ここまで読んでくださった皆様、
一部だけでも読んでくださった皆様、
ページを開いてくれた皆様、
ブログに遊びに来てくれた皆様、
 
 
本当にありがとうございます。
 
 
 
 
 
いつも、SNS等の活動では、
皆様に本当にお力をもらっています。
 
 
私も少しでも皆様に力を与えられる存在に
なりたいと思っています。
 
 
 
 
 
 
最後は、元気に締めます!!!
 
 
みんな!!!いつも、ほんとにほんとーに、
ありがとおおおおおおおう☆    ぴよ。